2020年1月 1日 (水)

能書き

   だらだらと地上の☆(稜堡式城郭)をグーグルアースで眺めてます。このブログではそんな星々を、一日一つ紹介・・・するはずが途切れ途切れに。個々の対象の歴史とかはあまり考えていません。ただ、眺めて楽しむ・・・そんな感じ・・・だったはずが、最近ではグーグルアースに写っている稜堡を重箱の隅をほじくるように見つけ出すブログと化してます。 p1 

  (画像はイタリアのパルマノヴァです。)

   ブログ内の画像はクリックすると拡大するようになってます。見づらい場合はどうぞ。

   とにかく角(稜堡)が見えたものはチェックします。素人なんで間違いがあるかも・・・。都市囲郭と単発の要塞を区別している程度で、たいして分類もしてません。だけど随時位置データの更新はしてます。

   いままで見つけた連中の位置ファイルはこちら。グーグルアースのネットワークリンクファイルになっています。データの更新が常に反映されます。
ダウンロード star_on_the_earth_nr.kmz (0.3K)

補助ラインを抜いて軽くしたもの
ダウンロード starfort.kmz (168K)

グーグルアースでは
http://usagicutter.cocolog-nifty.com/blog/files/star_on_the_earth.kmz
アドレスをコピペして検索欄に貼って使ってください。

上記のファイルから五稜郭タイプを中心に100ほど選んでみました。
ダウンロード starfort_100.kmz (11.7K)
  このファイルをみるためにはグーグルアースが必要です。フリーかつお勧めですのでダウンロードをどうぞ。

最近メモ置き場ホームページ造りました。(予定の半分も埋まっていませんが・・・)

稜堡式城郭りすと いつまでも工事中
上記サイトの用語集ページ


   グーグルアース以外にもいろんなソフトやサイトを使ってます。

Google Earthの旅 最近投稿しだしたサイトです。新しく見つけた☆をUPする予定です。

bing maps マイクロソフトの新検索エンジンサービスbingの一翼をになう地図サイト。対応可能なブラウザであれば専用ソフトをインストールすることで3D機能(グーグルアース的な地球儀機能)が使用可能。概観図機能などグーグルマップ&アースより優れている点も多いです。

ウィキメディア・コモンズ フリー画像等のフリーユースメディアの集積体。Wikipediaと連動しているため使い勝手が極めて良いです。使える古地図も多数。

ジェオポルタイユ フランス政府によって公開されている、衛星写真による地理情報を提供するWebサイト・・・とは言うものの、見ることができるのはフランス領土内だけです。でも精度は最強。地図表記への切り換えが楽なのも美点。

ワールドウィンド  NASAの地球儀ソフト。これもフリーです。アメリカ国内の高精度写真をみるのに使っていたのですが、グーグルアース画像の高精度化が進んだため使用率が低下しています。

日本稜堡式城郭研究会のホームページ  稜堡式城郭の構造や歴史を紹介しているサイト。(ここで「稜堡」と言う言葉を覚えました)

Historic Citiesヘブライ大学の都市古地図のコレクション。今はもう無くなってしまった稜堡式城塞の往事の姿が多数収録されています。

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2010年10月18日 (月)

お知らせ

usagicutterの代理の飛井です。

突然で申し訳ありませんが、管理人が更新できる状態ではなくなってしまったのでブログを停止します。

一応、HPはデータその他含めて継続するのが望みらしいので残しますが、このブログはデータ置き場程度の意味になると思います。

以降連絡は

tobiisaji@gmail.com

までお願いします。

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2010年4月12日 (月)

第三の男、あるいは見捨てられなかった「塔」(2)

Erik_Dahlbergh_(ur_Svenska_Familj-Journalen).jpg イエリック・ヤンソン・ダンベリー ( Erik Jönsson Dahlbergh、1625 – 1703年)はスウェーデン人の軍人、軍事技術者です。英語読みだとエリック・ダールバーグで、こっちのほうが通りがいいかもしれません。

   経歴をざっとたどると、農民の子に生まれて早くに孤児となったものの読み書きを学び、16歳でドイツに渡り仕事をしつつ数学、建築学、築城学等を学び、やがて外交官のような仕事をした後にカール10世の軍事技術顧問となります。そして有名な氷上侵攻を検討したり、コペンハーゲン包囲戦に参加したりしています。

   このように軍事経歴が豊かであったのにも関わらず、生まれが貧しい階級であったため、なかなか軍隊内の地位が上がりませんでした。しかし、築城及び包囲戦で実績を重ね、1676年にスウェーデンにおける要塞の管理責任者になり、さらに造兵部を設立、1687年には男爵位に列せられて貴族扱いとなり、最終的には元帥にまで上り詰めました。貧しい立場から成り上がるところはヴォーバンと似ています。

   で、まあ経歴はこんな人なんですが、この人もまたよく要塞を築いています。数えたわけじゃありませんが、クーホルンより築城数は多いかもしれません。スウェーデンって国は17世紀から18世紀半ばにかけて始終戦争ばかりしておりまして、要塞の需要は大きかったんですね。

   惜しむらくはこの人、ヴォーバンやクーホルンのように築城理論書を書いておらず、そのせいで有名じゃないきらいがあります。都市図集の編纂はしているんですが、簡単な解説だけです。したがって、独自な理論が見えにくいところがあるんですが、関わった要塞を眺めているとおぼろげに傾向が見えてきます。

   この時代の築城家に最も求められたのは都市の防御です。すなわち、どのような囲郭を構築するか、です。ダンベリーの仕事をみていると、この点に関しては当時の流行を的確に押さえた外れのない類のものに見えます。

D01

    ラトビアのリガ北方にあるダウガフグリーヴァ要塞です。1680年代にダンベリーがそれまで在った要塞を破壊して完全新規の要塞として築造したものです。

   稜堡の形がちょっと独特ですが、これは古オランダ方式最末期の仕様です。形は通常稜堡なんですが、flank部が堡塁化し、新オランダ方式の稜堡に近いものとなっています。つまりダンベリーが築いたこの稜堡、オランダの影響をモロに受けていて、ここら辺りもあまり評価に繋がらない理由かもしれません。ちなみに同時期のヘンリッック・ルーズによるコペンハーゲンのカステレット要塞も、良く似た稜堡を指向しています。この時期のドイツ、北欧の稜堡式城郭はオランダの影響が極めて強いですから、まあ妥当なところ。

   しかし、ダンベリーの独自性は都市囲郭より単体の要塞、それも小型の要塞にこそ現れました。その一例が昨日のクローナン砦とレイヨネット砦ですが、ここでもう2つ例を挙げておきます。

DK02

   スウェーデン・カールスクローナ市の沖合にあるドロットニンクスカー要塞(Drottningskärs kastell)です。

   上から見ただけじゃ、ちょっと細長い四稜の稜堡式城郭にしか見えないんですが・・・。

   よく見ると細長い銀色の屋根の建物がカーテン沿いにありますよね。

 

DK01    これがその建物の様子です。写真はウィキペディア・コモンズからですが、パブリック・ドメイン扱いなのでそのまま掲載。

   結論から言えば、これは左右に引き伸ばされた要塞塔とでも言うべきものです。つまり塁壁の形はシンプルなんだけど、その中心には屋根で保護された砲郭をもつ要塞塔やそれに相当する建築物があって、集中された火力で強力な正面火線を構成しているんです。

C01

   これもスウェーデンのカールスタン要塞(Carlstens fästning).。1670年代から80年代初頭にかけてダンベリーが大幅に手を加えた要塞です。

   複雑な形状をしていますが、これは塁壁のほとんどが室内に砲郭を持つ構造物となっているからです。塔なんかはそびえ立っていますが、しっかり大砲狭間が開いています。(青い屋根の建物が塔です)

 

Carlstens fästning, den 8 juli 2006, bild 2.JPG

   ですが一番すごいのは、この構造物。航空写真の北東側塁線から突出している部分です。なんか、肥大化したカポニエールのような一種独特の建物です。むちゃくちゃユニーク。

   この要塞で重要なのは、見た目を低く抑えようとはしていないってところです。高さがある分、二段三段になった火器狭間からは強力な火力が放たれます。つまり、ダンベリーってヴォーバンやクーホルンよりはるかに建物に集中された火力を重視しているんです。叩かれるのを恐れるより、叩き返すって感じでしょうか。

   このような稜堡式城郭の時代における要塞塔や建物による防御って、ダンベリーが編み出したわけじゃありません。ドイツにも類例がありますし、昨日のクリスチャンセン要塞にしたってダンベリーからみれば敵方でありライバルでもあったデンマークの築城家、アンソニー・クシュロンによるものです。ですがクシュロンが塔を造ったり造らなかったりしているのに比べ、ダンベリーは小型要塞には必ず塔ないしそれに類する建築を設けて火力集中を図っています。ダンベリーは塔を見捨てていないんです。

   更に言うと、これはかなり意識的にやっている事だと思います。稜堡式の塁線ならともかく、凹堡式はその形状から正面方向の火線が薄くなりがちなので、これを補う意味があったのではないかと想像しています。もっともカールスタン要塞のように全面が塔のようになってしまうと、あんまり関係ありませんが。

   それでですね、このダンベリーの築城方法、「比較的単純な塁線と強力な要塞塔の組み合わせ」って、実はモンタランベールの方法と極めて近似しているわけです。スウェーデン語版wikiにも「おそらく」と但し書きをつけながらも、その可能性について言及しています。

すなわち、ダンベリーの仕事、特に小型要塞に関する仕事はモンタランベール、引いては近代的多角形方式要塞に通じる部分があるわけです。ドロットニンクスカー要塞なんか、稜堡式の塁線を台形に換えれば、そのまま初期の多角形要塞っと言っても通用しそうな感じです。・・・・あ、カポニエールが無いかw しかしカールスタン要塞に見られるように、ダンベリーがカポニエール的施設のアイデアを持っていたことは確実ですね。事程左様に、ダンベリーの仕事は先進的であるわけです。

   ですが、これらの施設を大型の要塞や都市囲郭には使用しなかったところがダンベリーの時代的限界なのかもしれません。モンタランベールがそれを提唱するわけですが、本格的な導入はプロシアによる19世紀前半の作業を待たなくてはなりません。17世紀後半に活躍したダンベリーの時代から約100年~150年後のことになります。

   稜堡式城郭を最終的には駆逐していまう多角形方式への萌芽が北欧の小さな要塞にあると思うとちょっと感慨深いところがありますね。

   ああ、それと最近知ったんですが、神戸の和田岬砲台、あれは明らかにモンタランベールの流れを組む構造をしていますが、同じことは約200年前にダンベリーがやっているんですよね。要塞塔と凹堡式塁線の組み合わせってやつです。設計した勝海舟はどこまで知っていたんだろう?? ちなみにダウガウグリーヴァ要塞近郊のラトビアのリガ市(この街の都市囲郭もダンベリーの設計でした。現在はほとんど残っていません)は神戸とは姉妹都市です。

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2010年4月11日 (日)

第三の男、あるいは見捨てられなかった「塔」(1)

   自身の勉強もかねてHPを作ってるんですが、日々新しい発見があって本当に楽しいです。最近は北欧辺りの情報を漁っていたんですが、かなり知識が増えました。・・・てか、稜堡式城郭の知識なんて、実生活では何の役にも立ちゃしないんですがw

   それはそうと、一方でモンタランベール絡みの凹堡式要塞の系譜も追っていました。ちなみに凹堡式(tenaille system)っていうのは稜堡の間に塁壁(カーテン)が無いタイプの要塞で、名称は個人的な私訳です。学術的な訳語は知らないままでいます。誰か教えてください・・・。

face

 

   左は普通の稜堡式城郭の模式図。一般の稜堡式城郭なら稜堡と稜堡の間にカーテン(黄色線の部分)があるんですが、凹堡式にはこれがありません。稜堡における側射を担当する部分のflank(青線部分)も、無い場合が殆どです。

  

   ちなみにtenaille(トゥナイユ)の意味ですが、もともとフランス語でヤットコの一種の名称を指します。こういうタイプです。転じて挟撃する行為、施設に用いられています。ところが稜堡式城郭においては、ややこしいことに、二つの意味があります。

oukaku01JPG

   一つはカーテン前面でこれを防御する細長い区画に用いられています。ヴォーバンが多用したことで知られている施設ですね。日本語訳では凹堡とも凹郭とも言われていますが、個人的には凹郭を使っています。

 

 

ouho

   何故かって言うと、同じtenailleを称するもう一つの施設があるからです。outwork(主体部から突出して設置される堡塁のことで、角堡や王冠堡等が該当する)の一種で、前面にカーテンの無いタイプです。個人的にはこちらに凹堡という言葉をつかっています。角堡や王冠堡と揃いで馴染みがいいですから。

   ネット上の資料ではっきりとした言及があったのを見たことがないんですが、形状から考えて、tenaille systemって名称はこれと共通するものだと思います。

   じゃあ、ちょっと凹堡式城郭・要塞の実例を上げてみます。個人的にはこのタイプ、稜堡式城郭の一種だと思っています。峻別する方もいるようですが・・・。

028HJ

   北海道北斗市の戸切地陣屋。見ての通り、稜堡間の塁壁がありません。

   普通の稜堡式城郭に比べて随分と単純な形態をしています。稜堡式城郭としては不徹底とか評価されることも有ります。凹堡式の形状は実のところ稜堡式城郭の発生段階ですでに提唱されているので、別段戸切地陣屋が手抜きって訳じゃないと思うんですが・・・。

   ただ凹堡式の要塞が臨時的で簡便な砦に用いられる傾向は確かにあったみたいです。

 

tsm

   もう一つ例をば。ニューヨーク自由の女神像の台座になってしまっているFort Wood。

   前に紹介したときは「わさわさといっぱい角がついてるような平面」なんて言ってますね、うちw

 

 

   上であげた2例は築造箇所が平地で比較的理論に忠実に造れる環境にあった例です。しかし、いわゆる星型要塞として知られるタイプの稜堡式城郭が実は少数派であって、稜堡式城郭の殆んどが不定形な都市の囲郭であったり地形に影響された形状をしているのと同様、凹堡式の要塞の多くも綺麗な形にはまとまっていません。 K01

   左図はノルウェー・トロンハイム市にあるクリスチャンセン要塞(Kristiansten festning)。一部稜堡式的塁線もありますが、特に画像左側の塁線はガッタガタ。凹堡式要塞の多くはこのような不定形なものです。

 

 

 

Sk01

   もう一つ例をば。スウェーデンのイェーテボリ市にあるクローナン砦(Skansen kronan)。ちょっと分かりにくいんですが、茂みの中に土造りの塁線が見えます。形はやっぱり☆型にはなりません。丘の上だしねえ。

 

 

   ところで、この二つを例として挙げたのにはちょっとした訳があります。二つとも中に何か建物がありますよね。こういう時、bing mapsの外観図機能は超便利。

K02

   クリスチャンセン要塞。

 

 

 

 

 

Sk02

   クローナン砦。

 

 

   この建物をさらに拡大。

 

 

Skansen Kronan Gbg.jpg

塔やがな!! 塔があるぅ!

   なんていうか、目立ちまくりですよね。この塔。しかも御丁寧にてっぺんに王冠が乗っかってるし。いあ、だからクローナン(王冠)砦って名前なんですけどね。「大砲の目標になる? ナンデスカ、ソレハ」とでも言いたげなw

   クリスチャンセン要塞のほうもかなり目立つ塔で、こちらはDungeon(天守)と言われています。これにはちょっと驚きました。ダンジョンなんて中世城郭とRPGで使われるだけかと思ってたw

   普通、稜堡式城郭の解説において、「高い塔は大砲の目標となることから廃れ、低い土塁の要塞に変わった」的な説明をされることが多いです。ですが、先日の最後ひよっちゃった思考の時から考えていたんですが、北欧の要塞をいくつか見ていてはっきりしたのは、稜堡式城郭全盛の時代にあっても、塔は廃れていなかったということです。もちろん中世城郭的な意味での塔ではなく、垂直方向に大砲狭間を二段三段と設けた強力な要塞塔として、ちょくちょく例を見かけるんですよね。

   稜堡式城郭と同時期に造られた要塞塔としては、ヴォーバンの海防要塞塔(世界遺産になっているカマレ=シュル=メールやサン=ヴァースト=ラ=ウーグのものが有名)や、もう少し後になるとフランスの1811年型要塞塔(Tour-modèle type 1811)やイギリスのマーテロー塔(Martello towers)があります。これらはほとんどが単体の要塞塔であるわけですが、クリスチャンセン要塞やクローナン砦の例は要塞塔が明確に凹堡式の塁線とセットになっている点が異なっています。

   ちなみにクローナン砦のあるイェーテボリ市にはもう一つ良く似た砦があって、こちらはレイヨネット砦(Skansen Lejonet)と呼称されています。現在は立派な塔だけ残っていますが、かつては周囲に稜堡式の塁壁が巡っていました。それも正しく星型の、です。五稜郭のど真ん中に塔が建っているイメージを想像すれば何となく近い感じかも。

  このように、特にノルウェーやスウェーデンでは要塞塔と凹堡式・稜堡式塁線の組み合わせを見かけるわけですが、このようなパターンを自身の作品に明確に取り入れた男がいます。

   名前をイエリック・ヤンソン・ダンベリー ( Erik Jönsson Dahlbergh、1625 – 1703年)といいます。生没年を見れば判る通り、ヴォーバンやクーホルンとほぼ同時代の築城家です。ちなみに、クローナン砦とレイヨネット砦は実質上この人の仕事です。

  この人の仕事は実に興味深いのですが、長くなるので今日はこのへんで。

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2010年4月 1日 (木)

星型要塞、あるいは日本語版ウィキペディアの記述について

最近何となくHPのほうに力点を移しているため、こっちのブログが疎かになりがちです。ただでさえよくダウンしてるのに、しょーもないです、我ながら。

さて、そんな折スオメンリンナ要塞を調べなおそうとしていたら、日本語版ウィキペディアに「星型要塞」の項目が出来ていることに気づきました。

で、早速読んでみました。そこで感想などを書いておこうかと。

さんざんwikiを利用しておいて、ここでブーたれるのは卑怯かもしれませんが、何か参加するのには敷居が高いんですよね、wiki。それにうちの知ってることなんて所詮ネット漁りで知ったことばかりだから、そんな奴が百科事典たるwikiの記述に参加するっていうのも気がひけるというか、何と言うか・・・。「個人的研究はアウト」らしいので、それに引っかかりそう・・・。

そんな訳で、感想という形で書いておくことを許してください、皆様方。

じゃあ、いこう。個人的重要度順に。

まず一番マズいのはクーホルンがルイ14世に仕えたとしている記述。ヴォーバンはルイ14世旗下ですが、クーホルンはオランダ軍人であって、ヴォーバンとは敵対した側です。実際この二人、現ベルギー領ナミュールでは直接戦ってますし。これは明らかな誤りだから、早く訂正されないかな。誤解する人が出そう。まあ、少し調べれば判る間違いではあるので、あんまり気にしないでいいのかもしれませんが。

で、ここからが本題なんですが、記述が「間違い」って言いたい訳じゃなくて、個人的感想として読んでください。

タイトルが「星型要塞」であることからも判るように、日本語版wikiの記述は英語版wikiの「StarFort」を訳出したものを基本としています。だけど、どうも「稜堡式城郭」あるいは「稜堡式要塞」を「星型要塞」と言い表すのには抵抗があるんですよね。

ここで

コラ、テメぇ、自分のブログのタイトルを百万回読み直せー

ってツッコミされるような気もしますけど。

いあ、自分自身「星型である」稜堡式城郭に惹かれてブログ始めた訳で、好きなことにも変わりはないんですが、百科事典を標榜するサイトがそれでいいのかなあ・・・ってね、思うわけですよ。

だって、単純な話、稜堡式城郭って「星型」とは限らないですから。

これは記事内容を見ればすぐ判ることです。例として掲載されているオモロウツやジュネーヴの図を見ればこれを「星型」って言うのはちょっと無理があるでしょ? 先にあげたスオメンリンナ要塞にしても、あの稜堡式城郭各種システムの超絶複合体を「星」というのはキツいです。日本じゃ五稜郭が目立ってますから「星型要塞」でもいいかもしれませんが、稜堡式城郭の多くは都市の囲郭であるわけだし、CitadelやFortといった単体の要塞にしたって「星型」になるとは限りません。

そんな訳で、やはりタイトルは「稜堡式城郭・要塞」あるいは「イタリア式築城(trace italienne)」が良いように思うわけです。あー、でもtrace italienneはやっぱちょっとわかりづらいかな。やっぱ「稜堡」かなぁ。自分が「稜堡」という言葉を知ったサイトの記述、「稜堡という施設を用いた城郭」という説明のほうがしっくりきます。これなら星型の要塞も、地形に影響された捻くれたシタデルも、都市囲郭もすべて収まりますから。

ちなみに「稜堡」は英語のbastionの訳語ですが、これは結構優れた意訳で、bastionという単語が本来持っている多意性(側射のために塁壁から突出した部位全般を指す。また、比喩的に社会集団から突出して活動する個人・団体を指すことも)を排除し、「稜」の字で形状を先端が尖った形に限定、「堡」で城郭内で攻撃拠点となることを的確に示しています。これを訳した人ほんと頭いいなあ。大鳥圭介かしらん。てか、こんなことも知らない自分に今あきれてますが。どこの稜堡城郭好きだよ、恥ずかしいのぅ。

閑話休題。そもそも各国版wikiの稜堡式城郭についての記事のなかで、英語版はやや浮いているきらいがあるんです。StarFortやそれに類する語をタイトルにしているのは英語版だけです(加えて今回の日本語版も)。ここで各国wikiのタイトルを羅列してみると、フランス語版がTracé à l'italienne、ドイツ語版はFestung記事の中でBastionärsystems、要塞といえば稜堡のオランダ語版では単にVesting、発祥の地イタリア語版ではFortificazione alla moderna(近代的要塞)となっていまして、文字通りバラバラですが、英語版以外では星という形に限定していないことに注意してもいいかと思います。より汎用的なんですね。

加えておくと、英語版にはアルベルティどころかサンガッロの記載すらなくて、歴史記述としても問題がありそうです。他国版の内容を見てみると、稜堡城郭大国であるフランス語版とオランダ語版の記述はそれぞれの感覚によるベクトルが入ってる気がしますし、英語版はその双方の影響をうけて錯綜している感じです。イタリア語版なんかは「なんでヴォーバンばっか人気やねん。本家はこっちじゃ、ボケ」的な怨念が感じられてちょっと笑えます。個人的にはドイツ語版がコンパクト、かつ的確にまとまっていて好きです。稜堡式城郭を駆逐した多角形型要塞を完成させた国として、稜堡式城郭を客観視できているような気がするんです。

さて、ここからは全くの想像ですが、どうして英語版wikiがStarFortをタイトルにしているのか考えてみたいと思います。

イギリスの稜堡式城郭を見ていて感じるのは都市囲郭がヨーロッパ本土に比べて未発達である場合が多いということです。国家間の戦闘が自国領土内でほとんど起こらなかったためなのは容易に想像がつきます。これがアメリカだとさらにその傾向が強くなり、稜堡式城郭といえば殆どが単体の星型です。そんな訳で英語圏、特にアメリカの人たちは、ちょうど日本人が稜堡式城郭として思い描くのが五稜郭であるように、国歌のネタになったFort McHenry、ボストンのFort Independence、個人的にうちが大好きなFort Ontarioといった「星型をした」稜堡式城郭を想起することが多いんじゃないでしょうか。必然、稜堡式城郭=「星の形をした要塞」となってもおかしくないと思います。オランダやフランス、ドイツではこうはいきません。もちろんイタリアも。これらの国では都市を防御する囲郭こそがもっとも意識される稜堡式城郭だったでしょうからね。

要するに、稜堡式城郭を「星型」と呼称したがるのは稜堡式城郭のうち都市囲郭が未発達だった国特有の現象と思うわけです。別にそれが誤ってるわけではなくて、それら各国の歴史事情を反映した結果であるわけですが、世界中の稜堡式城郭を説明しようとするときに、このあまりにも形を限定しすぎている用語を使用すると齟齬が生じかねません。まったく星にみえないスオメンリンナが星型要塞と言われてしまうのは、その一例だと思います。

まあ、いろいろ書き連ねましたけど、trace italienneを指し示す言葉が日本では一般化していない以上、どのような訳語が出てきても仕方ないのかもしれません。「まちがいじゃないんだけど、ナンダカナー。ま、どこの国でも統一された言葉はないみたいだし、いっか」みたいな感じかも。ただ学術書では「稜堡式~」を用いることが多いように思います。無責任な話ですが、なぜそのようになったかという理由は調べてません。一方、星型要塞は稜堡式城郭を説明するときに五稜郭といっしょに用いられることが多いようです。

改めていいますが、うち自身wikiには大変お世話になってますし、項目を書いてくださった方には本当に頭が下がります。これから修正して下さる方がこの記載をこれからどうやって育てていくのか楽しみでもありますね。wikiの記述って成長するものだから、気長に待つことにしましょうか。

・・・それはそうと、 やっぱ大鳥圭介による「築城典刑」が「稜堡」って言葉の言い出しっぺなのかなあ・・・、まあぼちぼち調べっか・・・。 あ、今日はエイプリル・フールだな(何

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2010年3月 9日 (火)

調べようと思う人とか事とか

   まあ、ちょっと反省しているんで、今後もっと調べなきゃならないなあと思ってる人たちとか、項目をメモしておきます。まだまだうちは無知なんで。

まずから。

  いきなりですが、ヴォーバンw 今更ですが、まだ知らないことがいっぱいです。

   メンノ・フォン・クーホルン。ヴォーバン最大のライバルであるこの人が確立した新オランダ方式(Nieuw Nederlands Vestingstelsel)はざっと見たところヴォーバン並かそれ以上の影響力があります。辛うじて日本語版wikiには記載がありますが、実にあっさりしています。オランダ語の資料には恵まれているので生涯を通史的に整理しないと。

   マルク・ルネ・マーキス・ド・モンタランベール。前項でも書きましたけど、最近この人のことが分からないとヴォーバン以降の稜堡式城郭の変遷は理解できないんじゃないかと思い始めました。ただネット上じゃ圧倒的に資料が少ないんです;; 本国フランスで不遇だった人ですから。著作は多いらしいんですが、その具体的内容が分からない;; どっかに解説してないかすら・・・

  ジュリアーノ・ダ・サンガッロアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ兄弟。ルネッサンス期のイタリアの技術者。世間一般では美術家・建築家として知られています。日本語版wikiに項目があるんですが、要塞絡みについては記述がほとんどありません。イタリア語版wikiを調べていてびっくりしたんですが、どうやら稜堡式要塞の立面構造(斜堤・覆道・塁壁等)はこの人達がすでに確立していたらしいんですね。(てか、斜堤なんてヴォーバンが発明したとおもってたよ。ぐは;;)

C. M. H. Pell。 どういう人かというと、かの五稜郭を武田 斐三郎が設計するにあたって元ネタにした築城書を書いた人です。これまた資料が見つかりません。wikiにも記載無し・・・。

  あとエルラールとか、ゴムとか。まだたくさんいるなあ・・・・

 

項目とか。

   マインツの稜堡。最近HP絡みでドイツの☆を一通りみていたんですが、変な形の稜堡があることに気付きました。こんなのです。類例としてはマーストリヒト、ヴァルツブルグとか。

 a

   図は現在破壊されて存在してないドイツのマインツ都市囲郭ですが、ここの稜堡、形がちょっと奇妙です。稜堡のフランク(側壁)が大きく広がっていて、カーテン(稜堡間の塁壁)が非常に短いものとなっています。古イタリア方式や古オランダ方式、もちろんヴォーバンのそれとも似ていません。

   新オランダ方式とは若干志向が似ている気がしますが図の囲郭ができたのはドイツ語版wikiによれば1660年のことなので若干早いようです。

   ドイツの稜堡式城郭は初期はイタリア、後にオランダの技術に属している印象が強いんですが、ドイツ独自ってのもあったのかもしれません。特定の人物が関わっていればわかりやすいんですが・・・。ついさっきまでヨハン・マクシミリアン・フォン・ヴェルシュがそうかと思っていたんですが、どうもちょっと時代が下るようです。・・・なんなんだろうね、この稜堡。

 

  星型要塞。・・・稜堡式じゃん、ってことではなくてw こんなのとかね。

 b

   一応凹堡式ってタイプの要塞はモンタランベールと関わりが深いってことは理解しているんですが、稜堡式城郭におけるカーテン(稜堡間の塁壁)がないタイプの要塞ってそれこそ通常の稜堡式城郭と同じくらい古くからあるんですよね。

   オランダのフーメンス砦(Heumense Schans)ですが、これなんか見てると稜堡式城郭よりよほど☆型に近いです。このタイプ、絵画資料ではよく見かけるんですが、どうも実例が伴わない。特に古いものについては。18世紀以降になるとちょくちょく類例があるんですが・・・。

   どうも臨時的な砦に使われる場合が多いんじゃないかと予想してますが、一体どうなんでしょ・・・?

何かまだまだいろいろあるなあ。まあ面白いからいいんですけどね。

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稜堡式城郭の「高さ」についての覚書(3) ~すいません、尻すぼみ~

  実は持病もちでして始終ダウンしてるんですが、そんな訳でこのブログの更新をやめて、その間にちまちまHPの更新なんかをしているうちに、やっぱこの話題、うちには早すぎたんだと気づきました。まあ、うちが要塞のこと知らなすぎるのがいけないんですけど・・・。素人はこれだから・・・(自虐;;)

ちなみに、こんなことを書きかけていました。

 

  考えてみれば、稜堡式城郭にとって代わった近代要塞でさえ、高さとは無縁じゃありません。よく言うでそ?「ニ○三高地」とか。「高地」なんですよ・・・。あれは日露戦争でしたっけ?(いいかげん)

   しばらく前に別のブログ・別のネタで調べる用があって第二次大戦の将軍の資料をあたってた事があったんですが、彼らが陣地にする場所もやっぱり「高地」なんですね。飛行機が当たり前の時代ですら、これです。「高地」にいることで目立とうがかまわない、とにかく「高地」を占領しているわけです。稜堡城郭だけが高さを棄てられる訳がない。

じゃあ何で「低い城壁」って言われるのか。一つの答えとして相対的な低さ・・・隠れている「高さ」を考えたんですが、これも絶対じゃないようです。山上に築かれた稜堡式城郭に高さを隠さない場合があるわけですね。一方で高さを隠している例ももちろんある訳です。・・・どっちもありなんですね。

・・・・あw

・・・ええと、ですねw 実はここまで書いて、「もう結論出てんじゃん」って思ってしまいましたw それで、続きが書けなくなりました。要するに稜堡式要塞はいつでも高さを指向してるんですよねw だって、見えようが隠れようが、「高い」わけだからw

「高さ>見え辛さ」なんですよ。で、攻撃側の大砲の弾に当たってもいい覚悟のある場合は身をさらす、と。それは防御に自信がある場合もあるだろうし、隠れようがない(周囲から見下ろされてしまう場合とか)もあるだろうけど、隠れること(見かけ上の低さ)が第一でないことは明白です。

・・・うーん、困った。低地や海岸といった「隠れられない」場所での稜堡を考る事で、「高さ」と「見え辛さ」の優先順位について詰めてくつもりだったのに・・・・予定狂った・・・どうしよう。

  話は変わりますが、外国の稜堡式城郭の説明を読んでると、さほど高さについては神経質になっていない印象を受けます。特に城壁についてはそうです。塔に関してはさすがに気にしたみたいで、城壁の高さと揃える改修をしている実例もありますが、城壁は高いまんま。「大砲に対応して稜堡を造りました」とは言うんですが、「大砲に対応して低く見えづらい城壁にしました」とはなかなか言及しないし、実際やってない。

 

あうあうあ~、ばかだなあ;; 「近代要塞でさえ」とか言ってるし・・・。今にして思えば肝心なことが抜けてるよ。

何かっていうと、結論から言ってしまえば、近代要塞としてイメージされるところの多角形方式の要塞(言及している旅順要塞とかもそうですね)の歴史について知らなさ過ぎたことが原因です。正直、形がつまんないので食わず嫌いしてました。ですがHP作りつつ何となく調べていたら、稜堡式城郭から多角形方式の近代要塞へ変化する過程って、よく言われているように「ドイツで発達し、稜堡式城郭に置き換わった」ってだけの単純なものじゃないってことに気づきました。

カポニエールの件で自分で「要塞の形なんてすぐさま置き換わらない」って言っておきながら、やっぱりどこかでそれを信じていて、稜堡式要塞から多角形方式にいたる過渡期の要塞の形状とそこに込められた思想・歴史等々を調べようとしていなかったのがダメポです。

前回例にジェノバのサンタ・テクラ要塞をあげたんですが、これなどは例にならないんですね。稜堡式城郭ではありますが、同時に多角形方式に至る過程で出てきた過渡期的産物なんで、「稜堡式城郭なのに高さを志向している」例としては不適当なんです。これを峻別し、火砲の発達と築城思想の性質を理解してからじゃないと、今回のテーマはできません。ちょっと背伸びしすぎました。

で、そのサボって知らずに抜いていた「多角形方式の歴史」の具体なんですが、「凹堡方式」といいます。いいますなんて言っちゃってますが、日本語でまともな訳語がネット上に見あたらないんです。正式にはtenaille systemと言います。こいつが稜堡式と多角形式の間に入ってくるんです。で、多角形式はこれのある意味発展形なんですね。

この方式の源流はマルク・ルネ・マーキス・ド・モンタランベール(Marc-René, marquis de Montalembert)という人です。多角形方式の源流にあたる人ですが、ドイツではなくフランス人、ヴォーバンよりちょっと後の人です。で、この人の理論は不幸にもフランスではほとんど受け入れられず、むしろサヴォイアやハプスブルグ・オーストリアで発展し、さらにプロシアが大々的に採用して多角形方式になっていくんですね。

(だから多角形方式がドイツ産という言説は間違っちゃいないけど正しくもないんですね。ちなみにドイツ語版wikiでは凹堡式段階からPolygonalsystemと呼称しています。ドイツの人たちは多角形方式が自分たちの発明だとは思っていないって事だと思います)

  閑話休題。で、この凹堡方式なんですが、比較的単純な塁線と、火力を集中させた強力な掩体化構造物(砲塔等)で構成されます。この掩体化構造物がくせものでして、単体で砲台として使用されたり、従来の平面プランを踏襲したうえでその塁線がすべてこれに置き換わっていたりします。

で、サンタ・テクラ要塞ですが、稜堡式要塞の平面プランではありますが、全面が掩体化されています。これを築いたのはサヴォイア家。モンタランベールどっぷりな方。またドイツの要塞築城史の中でエポックメーキングな事例とされているコブレンツ要塞群のなかのエーレンブライトシュタイン要塞(Festung Ehrenbreitstein)も稜堡式の平面を持ちながら、塁線は掩体構造化されています。

これらの事例を見て判るとおり、掩体化構造物は高さを稼いで、その分二段三段と大砲狭間を設け、火力を集中させているんです。今にして思えば南北戦争時のアメリカの要塞群の事例とか知ってたのになあ、なんで気づかなかったんだろう。本当に間抜けですが、・・・この視点がぬけてたんですね、うち。

繰り返しますが、例にあげるべきものではなかった。稜堡式城郭の志向とは微妙にズレたものだったんです。もっとちゃんと週別しながら考察するべきでした。

そんな訳でこのテーマ、中途半端ですが打ち切ります。・・・まだまだ修行が足りん;;

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2009年11月20日 (金)

半ばヤケでHP公開してみる。

   戻ってきました。正直体調は思わしくなく、まだしんどい。そんな訳で、もうなんかヤケ。HPぜんぜんできていないけど、公開しちゃう。

   まあ、グーグル・サイト利用してるんで、使い勝手はちょっといじれるブログ・・・みたいな感じなんですけどね。情弱なうちにはちょうどいいです。

    99%人様の画像と情報が元になってるんで、ほんとメモでしかありませんが、ブログよりは整理されてて見やすくなる・・・・予定。 ぼちぼち、書いてない部分を埋めていきます

 稜堡式城郭りすと いつまでも工事中 http://sites.google.com/site/ryoubaoshijoukakurisuto/ でやってます。お暇なら、どうぞ。間違いとか指摘してくれると嬉しいです。

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2009年10月29日 (木)

すいません;;

すいません。またぞろ厄介事抱えちゃいまして、しばらくお休みします。

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2009年10月13日 (火)

稜堡式城郭の「高さ」についての覚書 (2) ~やっぱり高いよ~

   前回の更新を書き終わってから気付いたんですが、このネタって稜堡式城郭の平面形じゃなくて、縦方向、立体、Z軸、そんな感じの話なんですね。・・・元々うち、平面の形にしか興味なかったはずなんだけどな・・・どこでズレちゃったんだろう・・・。

   まあいいや、乗りかかった船だし。続けます。

   ちょっとおさらいしておくと、前回で「稜堡式城郭は高さを捨てたわけじゃなく、高さを隠したんだ」みたいな事を書きました。中世城郭、いやそれより以前の古代城郭以来連綿と続く高さへの指向は、稜堡式城郭にもしっかりとあるわけです。まずいのは高くなることで「見えやすく」なり、見えやすくなることで「射撃の目標になりやすく」なることです。だから隠しちゃえ、でも高さのアドバンテージ棄てるのはヤダよって感じなのだと思います。

   ところがですね、稜堡式城郭を調べていくと、目立つ山上にドカンと居座ってることって多いんですよね。しかも城壁が見え放題のままで。・・・話が違うじゃんか・・・;;

T008

   左図は以前紹介したジェノヴァのサンタ・テクラ要塞 (Forte Santa Tecla)。周囲から丸見えです。

   18世紀半ばに造られ19世紀前半に改修されているので、そんなに古いわけではありません。古ければそれ以前の中世城郭の名残って見方もできるんですが・・・。(この古さ、すなわち稜堡城郭の起源っていうのも面白い問題なんですが、場所を改め、もっと調べた上でやりたいです。)

   さてこの場合、当初は「砲弾が当たらなければ城壁は高いほうがいい」のかな?と考え、当時の大砲って麓からは届かないのかしらと考えました。ところが・・・

T009

   左図は三十年戦争中の1641年、南ドイツのホーエントヴァイル要塞 (Festung Hohentwiel)の攻防戦を描いた図です。(wikiから引っ張ってきたパブリック・ドメイン(公有)画像です)

   これを見ると判るんですが・・・麓から撃たれてるじゃん。ダメじゃん・・・・。

      リンクしたwikiの記事見れば判るんですがこの要塞、標高681mというとんでもない岩山の上にあります。麓からの実質的な高さはよくわかりませんが、100m以上なのは確実。加えて1641年って言えば17世紀半ば。前述のサンタ・テクラ要塞の時期より100年早いんです。大砲が時代と共に性能が落ちるとは思えないですから、サンタ・テクラ要塞は当たるの覚悟の上で目立つ高い城壁になっていたと考えられます。・・・うーん・・・。

   稜堡式城郭の時代に注意して見ていくと、サンタ・テクラ要塞のように城壁を外に晒した例って意外と多いんですよね。ヴォーバンの仕事の中にも城壁を晒した例を多数認めることができます。大砲の弾があたる危険があるにも拘らず、あえて晒すってことは、どういうことなのか。火砲に対応して隠れる(見かけの低さ)を指向する方向は確実にあるにも関わらず、です。

   実のところ、この問題はいろんな要素が噛み合った相対的なテーマだと思います。大砲の威力、城壁の丈夫さ、立地の地勢などなど。個々のの稜堡城郭が置かれた状況って、当たり前ですが千差万別で異なってるんです。だから正確には理由が例毎にあるはずなんですが、いちいち考えることなんて、アフォなうちにはできません。だから・・・もっと状況を絞り込んだほうが良いかなって思いました。

   山の上はまだ「隠れる」ことができる地勢です。自然斜面を利用して隠れてる(低く見せている)稜堡式城郭がある以上、サンタ・テクラを始めとする山の上に立地した例では、稜堡式城郭は必ずしも城壁の高さを隠すとは限らないって事しか判りません・・・。

   ならば隠れられないところって無いでしょうかね?・・・あるんですよね、これがw で、その例は次回に。

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2009年10月10日 (土)

稜堡式城郭の「高さ」についての覚書 (1)

   HP作りが進みませんw 著作権対策やら、ネット上に資料が無いやらで・・・。

   まあそれはそうと、いろいろ調べているうちに改めて気になることも出てくるわけで、この間のヴォーバンに関することもそうなんですが、思いついたことをメモっとかないと~とか考えたりする訳です。

   で、表題のことなんですが・・・何かまだ考えがまとまらないので、本っ当にただのメモになりそうです。ですが、性能劣悪な脳みそを持つ身としては、どっかに書いておかなきゃならず、ブログを利用した次第。・・・このブログのタイトルにも「メモ」だって書いてあるしねw

   それにこれは確信をもって言いますが、世の中のどっかにはこういうことについて解説した本なりサイトなりが確実にあるはずで、まあ、うちが見つけられない、ないしは見つけるのをサボってるだけなんですね。

   でも、いいやw 素人のお遊びと思ってくださいな。

   じゃ、始めよ。まず、稜堡式城郭の「高さ」っていう問題は、つまりはこの言説を指します。

“中世までの石積みで背の高い城壁は、ルネサンス期に攻城砲が出現すると格好の射撃目標となった。攻城砲の威力を減殺するために、城壁は背が低く厚みのある土塁へと変化していった。一方で防御側としても、同時期に登場した銃の威力を活用し、攻め寄せてくる敵に十字砲火を浴びせられるよう、死角がないように城壁から外向きに突き出した稜堡が築かれるようになった。こうして稜堡式城郭が発達していった。”

                         (日本語版wiki ヴォーバンの記述から抜粋 下線はうちが引いたもの)

   でもって、wikiにはブールタングや五稜郭の写真が載っていたりして、なるほどと納得できる仕組みです。

   この説明は間違ってないと思います。思いますが、文章と実物にはそれぞれから受けるイメージに微妙なズレがあると思ったんです。で、そのことをメモしておこうと思います。

T001

   左図はトゥーロンの都市囲郭です。トゥーロンにはもともとヴォーバンが築いた都市囲郭があったんですが、フランス第二帝政期の1850~60年代にかけて、これを壊して新しく造られたシロモノです。

   これだけだとピンとこないかもしれませんが、五稜郭の築かれた年が1866年だっていうと判るかも。・・・五稜郭の説明にはこのような記述が散見されます。

“一番の問題としては、既にヨーロッパでもこのような稜堡式の築城様式は、いささか旧式化していたことである。堡塁を重ねるのは小銃を防御兵器として用いるための方式であり、当時のヨーロッパでは大砲を掩体壕に据えての防御へと移行しつつあった時期である。”

                           (日本語版wiki 五稜郭の記述から抜粋 下線はうちが引いたもの)

  要するに時代遅れなシロモノなんですが、それにしてもこの稜堡、デカいよなあ・・・。恐竜的進化って言葉がぴったりしそう。

   閑話休題。トゥーロンの稜堡に認められるように、フランスはヨーロッパのなかでも最も稜堡式城郭に拘った国です。ちょっと前に書いたメスの要塞のように、他の国がとっくに多角形型近代要塞に移行しても、まだ稜堡を使い続けてます。・・・で、1870年に勃発した普仏戦争で稜堡式城郭の陳腐化が完璧なまでに証明されるわけですが、まあ、今はそれは置いときましょ。

  今問題にしたいのは、この稜堡の「高さ」です。・・・稜堡式城郭最終段階の高さはって言うと・・・。

T002

    こんな感じ。そそり立ってますw  城壁の上端が土塁になっているのは砲撃のショックを分散させるクッションの役割を期待しているからです。wikiの説明にある「攻城砲の威力を減衰させるための土塁」部分に相当します。

   ですが、今は高さだけ考えることにします。この写真だけ見ていると「城壁は背が低く厚みのある土塁へと変化していったっていうwikiの記述、ウソじゃーん。最終段階でこんなに高いよ」ってな感じになりますが・・・そうはならないんですね。そこらあたりが上記の「文章から受ける印象とのズレ」なんですが・・・もうちょっと例を見てみましょうか。

   さて、上に載せた写真ですが、グーグルマップ&アースの最終兵器(w)、ストリート・ビューを利用したものです。HP作ってる過程でちょっとでも使用可能な写真が欲しくて折に触れて見てみる訳ですが、これが意外と使えない。・・・単純に稜堡城郭を地平の高さで見るとつまらないってのもあるんですが・・・それ以前の問題、「城壁が見えにくい」例が多いんです。

T004

   左図はフランスのピカルディー州にあるデュランのシタデル(Citadelle de Doullens)です。ちなみにこの☆は1599年製。トゥーロン都市囲郭の稜堡とは逆に、フランスで最も初期の稜堡城郭の例です。トゥーロンの例とは300年の差がありますね。

   築城者はJean Errardという人。ジャンはいいとして、エルラールなのかエラールなのか、無知ムチプリンなうちにはよー判らんのですが、それはともかくアンリ4世の下でフランスにイタリア式の稜堡城郭を紹介し、理論書を書いて普及させた方です。よくヴォーバンの先行者として紹介されてます。

   ぐは、また脱線。デュランシタデルの画像に戻らんと。

   中精度地域なのでちょっとボケてますが、いい具合の位置にストリート・ビューのアイコンがあります。しめしめワクワク・・・。ストリートビュー、かもーん。

T003

   って、期待して見てみたんですが・・・なんじゃ、こりゃ;; 全然見えないじゃん・・・城壁の上部ちょっとだけしか・・・。

   ・・・まあ、こんなことがあったんですが、こんなのはまだ良いほうで、建物等の障害物が無いにも関わらず城壁が全く見えない例って本当に多い。・・・いや、正確に言うと「障害物が無いように見えるにも関わらず」・・・かな。

   実はしっかり障害物がありまして、山の斜面だったり、ヴォーバンが大好きな斜堤だったりします。 この斜堤(グレイシス)というシロモノ、最近ようやく意味が判りかけてきたんですが、まだ不安なんで機能については置いておくとして、要は稜堡城郭のもっとも外側の部分に相当する人工的な斜面です。稜堡式城郭の図面をみてると稜堡の先端から放射状に稜線が見えますが、その付近に相当します。

じゃ、なんでこいつらのせいで城壁が見えないかっていうと・・・

T005

   ヘボい図で申し訳ないんですが、言葉で言うより早いので・・・。

 

 

 

 

まあ、こんな感じなんですね。

    ヘボ図内に描いたように、実際の城壁の高さはかなりあります。ですが、斜堤が邪魔して外からは見え辛くなっています。・・・で、図の視線のラインは、ある程度攻撃側の射撃ライン(射線)に置き換えることも可能かと思うんです。下から鉄砲撃つとこんな感じで弾が飛んでくだろう、って考えたわけです。

   このような状況がもたらす効果について考えて見ました。

  1. 見えにくい=狙いが定めにくい。
  2. 直接城壁を狙えないので大砲で城壁を崩せない。

   いあ、改めて稜堡城郭のシステムってよく出来てるなぁって感心しますが、このような事がごく初期の段階であるディラン要塞で既に意識されていることにびっくりです。

   確認しておきますが、「城壁の高さ」自体は隠れているだけでしっかり確保されているんです。外から見えづらい(低く見える)にも関わらず、高い位置から撃ち下ろす効果(射距離が伸びて威力が増す)と、高さゆえの障害物効果(堀の中からは中世城郭の城壁以上の高さだったりする)は両立し、確実に存在しています。

   従って、ここでは「稜堡式城郭の城壁は低い」っていうのを「稜堡式城郭の城壁は見えづらい」と言い換えられるかもしれません。一つ種明かししますと、最初のトゥーロンの城壁が高く見えたのは、ストリートビュー・カーの走ってる道路が堀の中にあるからなんですね。堀の外から見れば、多分ああは見えないでしょう・・・。

   ついこの前まではこれで納得かつ自己満足をしてたんですが・・・世の中そうは問屋が下ろさないわけで、そこら辺りは次にでも。

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2009年10月 4日 (日)

ブログ・HPで扱う画像の著作権について調べてみたり・・・

HP絡みで、ここのところ各種画像の著作権について調べてました。

まあ、うちの場合、ブログにしろHPにしろ、画像は100%他人様が撮影もしくは作成したものなので、改めて調べなおそうと思ったわけです。

結果、今までの使用法がかなりヤバいことが判って青くなり、取得先別に画像に関する著作権の取り扱い方法をメモっておこうと思ったんですが、それを公開すること自体に責任問題が生じる可能性もあって、怖くて止めました。

しかしですねえ・・・・ほんま、この問題はややこしい。対処方法の個別具体例を挙げるのさえ危険な要素を孕んでいて面倒くさいです。

これから改めて対策にかかりますが、しばらくかかりそうです。

一つだけ具体的な言及を。この件に関して一番クリアしやすかったのはbing maps、すなわちマイクロソフトだったことを付記しておきます。即行で回答がきました。頑張ってるよなあ。

元々うちはマイクロソフトに関していい印象を持ってなかったんですが・・・好感度がめちゃUPしました。

どこかで恩返ししたいもんですね。・・・大したことはできないだろうけどw

 

追記:タイトルとは全く関係ない事なんですが・・・。

さっき気づいたんですが、9月20日ごろ日本語版wikiにおけるリシュリューがらみの記述が大幅に増えてました。wikiの執筆者さん、ご苦労様です。有難いことです。・・・・wiki内でお礼を言う方法が見つからないので、こんなところで言ってみました。

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2009年10月 2日 (金)

迷うまいまい

   あ、ヲタク・・・w いあいあw

   ここのところHP絡みでフランスを見直しているんですが、リヨン近郊でまたこんなのを見ました。・・・いあ、前にも見ているはずなんだけど、忘れてた。

01    まただよ、これ。この手のやつ。迷うんだよなあ。

   所謂多角形型近代要塞ですが、後方部が稜堡っぽくなってます。実はこの手のやつ、意外に多い。ちなみにリヨンではこの手のどっちつかずが更に数基あります。

   この手の要塞が多い原因の一端はかのブリアルモンで、この人ネットワーク型環状要塞群のプロなのに稜堡式要塞をかなり評価していて、自分のプロデュースした要塞に稜堡っぽさを残すんですよね。そいで、うちが混乱すると・・・。

   更にフランスの場合は伝統的に稜堡式城郭を使い続けていたってこともあるかもしれません。なかなか影響がぬけきれないと・・・。

  困ったな。形で押し通そうとするとどこまでが稜堡かっていうシビアな問題になるし、前に撃ち合うことを意識した形状を指針としたことがあったんですが、これだと例のグリーンベレーの砦とかはどうなっちゃうんだろうとか思っちゃうし・・・迷うなあ。この手の形をすべて切るとなると16~17世紀の沿岸要塞とかも切らなきゃいけなくなっちゃうしなあ・・・。

   で、独断と偏見で、時期を以って切ることにしました。1870年以前と以後で。これ、何かっていうと普仏戦争のあった年です。要するに、普仏戦争以前と以後。

「1870年(普仏戦争)以後の要塞で、明確な形の稜堡が無い場合はチェックしない」・・・これで行こうw

   ちょっと理由を書いておきます。普仏戦争ですが、この戦争はフランスがプロシア(ドイツ)にボロ負けしたってこと以外にも、要塞の歴史にとって重要なことがありました。・・・稜堡式要塞の陳腐化がはっきりした戦争だったんです。

02   都市の周囲に環状に要塞を配置する方法は当時のヨーロッパ各国いずれもやっていたんですが、フランスの場合、これにも稜堡式要塞を採用していました。1840年代に造られたパリ要塞群がそうですし、リヨンでも1831年から51年にかけて築造された第一環状要塞群は稜堡式城郭が主体です。また、メス(Metz)の環状要塞群は普仏戦争直前のものですが、形が多角形型にかなり近くなってはいるものの、まだ前方に稜堡があって、フランスの稜堡に対する拘りが感じられます。(左図はメスのプラップヴィル要塞)

   ところが普仏戦争でパリの要塞群はまるで役に立ちませんでした。まあ、全く役立たずってのは言いすぎで、プロシアの作戦が優れていた点も加味するべきなんですが、それでも長い射程の大砲と機動的な軍隊をメインとした戦争にはそぐわない時代遅れな形であることがはっきりしてしまったんです。

   で、ヴォーバン以来長らく稜堡式城郭を信奉していたフランスもついに諦め、要塞を多角型に転換させます。・・・とはいっても冒頭のような要塞が存在するんですけれどもね。ちなみにこの要塞は1871年以降に造られたリヨン第二環状要塞群に属するものです。第一が内側、第二が外側にあたります。・・・要するに第二は普仏戦争以後のものです。(リヨンの環状要塞群に関してはこちらを)

   この例で明らかなように、突然転換が図れるはずはありません。ですから1871年以降も明確な稜堡を持つ要塞が造られたりはしてるんですが、それも1875年くらいまで。10年後にはフランスで稜堡式の要塞は造られなくなります。

   そんな訳で、フランスが諦めたことを稜堡式城郭の死亡宣告とするのはあながち間違いでもないんじゃないかなぁ・・・って考えたんですね。

   そんなこんなでHPを進めたいんですが・・・東欧あたりでブリアルモンが1870年以前に冒頭のような要塞を造っている可能性大w 調べて見なけりゃわかりませんが。まあ、そん時はそん時でまた考えます。

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2009年9月29日 (火)

ヴォーバンをめぐるニ、三の事柄

   ちょっと家を空けてまして昨日帰ってきました。どっぷり疲れてるんですが、まあちょっとメモ。

   HP作り出してからフランスの☆に関する資料をネット上から漁ってた訳ですが、何となくヴォーバンに関していくつか気づいたことがあるので・・・.

   一つ目。この人、意外と毒舌家です。マルセイユのFort Saint-Nicolasに対する評価に見られるように歯に衣着せぬところがあります。この要塞を造ったのはLouis Nicolas de Clerville(ルイス・ニコラス・ド・クレルヴィル)でwikiによればヴォーバンの師匠筋に当たる人のはずなんですが、「ムダの集積」とか言われてる。ヴォーバン、性格悪かったんじゃないかすら。「三銃士」のダルタニヤンがリールでヴォーバンとトラぶったとどっかで読んだ気がするけど、案外ヴォーバンの性格によるのかも。

   二つ目。お金は大事。そんな性格なので、あのルイ14世にも意見してしまう命知らずなわけですが、特に有名なのはフォンテーヌブローの勅令(ナントの勅令の廃止)に対する反論と、課税の平等と下層民の負担軽減を説いた『王室の十分の一税』の執筆でしょう。特に後者はルイ14世の逆鱗に触れ焚書扱いになったそうです。

   後者を見てるとなんとなくヴォーバンいい人のように見えますが・・・だぶん違うw

  と言うのは調べていくうちに、ヴォーバンの仕事の実に多くが予算不足で頓挫したり縮小したり、何らかのトラブルになっていることに気づいたからです。お金持ちのプロテスタントを追い出すのは反対、お金出し渋る貴族より、広く浅く平民から税金を・・・・、要するにこの人、自分が仕事する銭が欲しかっただけなんじゃないか・・・。そんな疑いが消えません。

   まあ、それは言いすぎにしてもですね、お金のかかる要塞建造なんぞを生業にしてる関係上、戦争における出費に対しては人一倍敏感だったのは確かだと思うんです。そんなヴォーバンをよそに主君のルイ14世は戦争ばっかやっていて、ベルサイユ宮殿なんぞも造ったりしてお金使いまくり。気が気でなかったってところでしょうか。

   三つ目。ブーメランの不幸。ルイ14世はそんな訳で始終戦争してましたから、軍人でもあるヴォーバンはそれこそコマネズミの如く働くわけですが、戦争には勝つときもあれば負けるときもあるわけで、頑張った結果が余分な仕事を増やすことにもなってます。

   典型例が、かのヌフ・ブリザック。この美しい要塞都市はヴォーバンの最高傑作ですが、もともとライン川対岸にあったブリザック(ドイツ名ブリザッハ)もヴォーバンが手を尽くして要塞化した都市でした。この町はライン川の中州に強力なシタデルがあったわけですが、戦争の結果ハプスブルグ家の手に渡ちゃった。

   ヴォーバンの要塞はハプスブルグ家がご馳走様状態、シタデルにいたってはフランス領内にドカスカ砲撃可能とゆう危険極まりないものになってしまいました。・・・難儀なことですw そんなわけでヌフ・ブリザック(新ブリザックの意味)が造られるわけなんですが・・・。

   渡河点を押さえる拠点の場合、その場所に都市なり要塞なりを築くのが普通なのは都市囲郭を追っているとすぐ気づくことです。ですがそれにしてはヌフ・ブリザックがライン川から離れていることが気になっていたんです。真相はヴォーバン自身が築いたブリザックシタデルからの攻撃が危険なので、離れた場所に作らざるを得なかったってことらしい。・・・まあ、結局そのおかげで河港を作ることもできなかったこの町は、たいした再開発もなされずに当時のままの姿で現在に至るわけですけれども。

   四つ目。やっぱり納得のいかない世界遺産。まあ、ヴォーバン本人のことではなくユネスコ、もっと正確に言うならICOMOSに関することなんですが。

  「ヴォーバンの防衛施設群」の中でアラス・シタデルとかランウィの新市街とか、まあヴォーバンが深く関わったことは確かなんだけれども、こいつら、半ば壊れてるんですよ。フランスにはヴォーバンがプロデュースした要塞なり都市なりで残りのいいものが他にもたくさんあるのに、なぜか指定されてない。

   ユネスコの報告書ではリール・シタデルに関しては言及されていましたけど、やっぱ言葉が足らない気がします。・・・で、よくよく眺めているとなんとなく分かってきました。

   要するにこの選定の元になった候補自体、極めて政治的と言うか町おこしのためと言うか、そんな感じなんですね。ブサンソン市が主導する形で候補がきまったようですが、この段階でリールは入ってません。つまり、ICOMOSは、入ってないのが不自然なリールとか他の候補になりそうな対象を、はなから無視してたってことです。

   ・・・ようはやる気なんですかねえ。自己申告制で「頑張って保全しますー」って言った者勝ちなのかな。ホテルだったのを理由に候補から落とされたベル・イルのシタデルなんてのもありましたけど、何か他の候補も多かれ少なかれそんな利害が見え隠れするような気がします。

   まあ、そんな感じでダラダラ考えていたりするわけですが、あらためてフランスの☆を通してみていると、ハッとするようないいモノに出くわします。

B

   これはロレーヌ州にあるマルサル(Marsal)という町・・・と言うより村です。内陸部にあるにもかかわらず岩塩でない湿地帯に湧く塩水で製塩業を行っていたという変わった経歴の村で、ヴォーバンが築いた囲郭と二基のブリッジヘッド(橋頭堡)が完存しています。

この遺構の遺存度も凄いんですが、もっとすばらしいのは周りの風景。ほとんど都市化が進んでません。湿地帯もそのまま。流れてる川も河川改修を受けていなさそうで、蛇行したまんま。往事の景観がかなりの確率で残ってるんだと思います。何て言うか、タイムカプセルっぽいって言うか、人知れぬ真珠と言うか、そんな感じ。

   こういうのがもっと評価されればいいのに・・・そんなことを考えてしまうのでした。

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2009年9月12日 (土)

戦線を追う

   そんな訳でこつこつHPなるものを作りつつあるんですが、項目もフランスから始まってロシアまで来ました。・・・何ぁんて言えば聞こえはいいんですが、本当に項目だけw 内容皆無。

   ロシア地域に入ってからは例のキリル文字との戦いで、作業がちっとも進みません。・・・スカヤ、スカヤ、カヤ、カヤ、カヤて、今時ね蚊帳なんて流行んないんだよ、殺虫剤もってこい・・・なんてアホなこと考えたりして。

   遅れる理由はもう一つあって、この地域、低精度地帯が多いんですが、☆の残りがいいって情報もまた多いんです。低精度地域にあっても将来的には見ることができるようになるだろうから、なるべく分かる所はチェックしておきたい・・・そう欲張ってしまうんですね。・・・で、作業が進まないとw

   そんな中、以前から注目していた場所があります。国としてはウクライナなんですが、まあロシア帝国の産物です。

ss0001

   こんな感じ。49°22'4.98"N,35°27'8.79"E辺りを中心にして、東西150km以上に渡っています。その中、ほぼ等間隔に☆が配置されています。

・・・でも、ほとんど低精度地域だっていう・・・うがぁw

   早く見れるようにならないかな、ウクライナ。

 

   で、これが何かと言うと、ウクライナ・ライン(Украинская линия)という防御線です。

   18世紀、クリミア・タタール(クリミア・ハン国)から自国を防御するためにロシアがつくった要塞群で、16の要塞(要するに☆ですね)と142の小要塞(多分要塞化された稜堡のこと。後述する確認できる部分から推察すると、三角形に突出しただけの稜堡を含めた場合、140程度じゃとてもじゃないが足らない)を土塁線で連結するっていうシロモノ。battlemapでよく見る臨時の要塞線を思い切り引き伸ばした感じです。

  で、ここの☆の残りが極めていいらしいw そこで、パノラミオにお願いしてちょっと例を。

   49°28'18.52"N,35°43'20.80"E、上記の写真で「Orlowski fortress」とした☆マークの在るあたりです。中央の写真アイコンをクリック、ふき出しがでたら、それもクリックしてみてくださいな。


   ・・・てなわけで、こんな感じでずらずらと残っているそうです。しばらく前からウクライナ、ウクライナ、早く見れないかなウクライナと言ってますが、これが一番の理由だったりします。

   ところで、このネタ持ち出したのは、HP作る過程でウクライナ・ラインの見直しをしていたところ、ホンの一部ですが高精度地域に引っ掛かっていることに気づいたからです。

49°11'48.03"N,35° 2'42.68"付近、です。

 ss0002

   このレベルだと良くわかりませんが・・・さらに拡大。

ss0003

    見えてきました。まず右下に小要塞としての稜堡。さらに三角形突出しただけの稜堡が中央に一箇所、左上にもう一箇所見えています。こんな感じでしばらく続いています。これだけでも長いなぁと思うのに、ウクライナ・ライン全体からすれば百分の一にもなりません。

   そんな訳で、喜んでウクライナ・ラインをリストに加えましたw

  参考にしたサイトの記載の中に「中国の壁」(要するに万里の長城) のロシア版なんて意味の記載がありましたけど、さもありなん。まあ、こちらは土造りのきわめて臨時的なもので幾分格は落ちますが。

ところがロシアにはまだ長大な防御線があるらしい・・・。調べているうち、こんなもんを見つけました。

ええと、どうしよう。連絡先も判らないし、リンクしてもいいよね?

ここです。くりっく

  現在のロシア・カザフスタン国境付近に造られた要塞群についての論文らしいんですが、現在なんとか意味を把握しようとして苦戦中w 防御線の記載は中ほどにあります。グーグルアースで確認してみると、いずれも(少なくとも五つの線があったことが図版から判る)500km以上の長さが・・・・。ちなみに500kmっていうと、直線距離で東京から兵庫・岡山県境までくらい。あわわ・・・。

これについてはラインの確認が出来ていないんですが、所属するらしい☆といくつかの遺構は見つけてます。

ss0004

   55° 2'6.19"N,70°50'21.31"Eにある☆です。wikimapiaの情報にしたがってKazakskaya fortressとしてありますが、正式な別の名前があるかも。確認中です。

あと近在に2基の☆が残っている情報もあるんですが、そちらは低精度内で、今のところ見えません。

   まあ、気長に待ちますか・・・。

 

12日追記:現在進行で調べているんでこんなことも起こるんですが、この記事書いた直後、wiki内に記載があるのに気づきました。複数の防御線をまとめてシベリアン・ラインと言うらしいです。調べようとは思うんですが・・・範囲が広すぎて先行き見えません;;

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